アダムとイブ、六日間による天地創造、ノアの箱舟

  

 池上彰氏が、「日本人の知らないアメリカ」という番組で、アメリカが「宗教国家」であるかを分かりやすく解説していた。国民の90%が神を信じており、そのうちの37%が聖書を一言一句、そのまま信じているという。そのような人たちは、創世記の天地創造の記事が、表現されている通りに起こったと信じているのだ。天地は6日間で創られ、アダムとイブが人類の祖先であり、ノアが950歳まで生きたなどという記述から計算すると、天地創造は6千年前に起こったとされる。このように信じなければ、正しい信仰ではないと主張するのが、キリスト教原理主義者である。
 しかし、聖書は科学の知識を語ろうとしているのではない。聖書の中に、自然科学に矛盾するような表現があったとしても、それは、その表現をとおして、神と人間との基本的あり方を示しているのだ。聖書の数字は、象徴的なものであり、ノアは主から長寿をもって祝福されたことを表現しているのである。聖書には、何年前に天と地とが創造されたのかは記されていない。ただ、神が創造されたのだと語っているだけである。アダムは、ヘブル語で人を意味する普通名詞(the man)であり、エバというヘブル語は、生命という意味で、「彼女がすべて生きた者の母」と考えられたからである。従って、アダムとエバは、人類の代表として記述されており、実在の人物だとするのは誤りである。もしこの二人によって人類が始まったとするならば、彼らの二人の息子(カインとアベル)の妻はどこから来たのかという疑問が残る。科学は、天地の発生の過程と時とを説明しようとするが、聖書は、だれによって、それらのものが発生させられたかを述べる。当時の人々は、日や月、動物や植物を礼拝していたからである。創世記が書かれたのは、紀元前8世紀であるが、その頃のイスラエル人は、バビロニア帝国の捕囚としてバビロンにいた。彼らはバビロニアの勝利の原因は、バビロニアの神殿に祭られている他の神々を礼拝しているためだと考えた。そこでイスラエルの祭司らは、バビロニアやベルシアの神々の創造物語に対抗して天地創造の物語を描いた。バビロニアでは新年に七日間にわたってアキツ祭が行われ、その間、バビロニアの祭司たちは、バビロニアの神々の起源と世界の起源とに関する長い天地創造物語を朗唱した。古代イスラエルの預言者と祭司は、これと対決し、七日間のアキツ祭の日数に割り当てて、神々が天地を創造されたのではなく、唯芸真の神が天地を創造されたことを述べたのである(J・A・サソダース)。神による六日間の創造が書かれているのは、そのためである。それは、神が六日間すなわち144時間で、この天地宇宙を造り上げたということではない。
 旧約聖書は、当時伝えられていた伝説や神話を、神から離れた人間の現状はどうなっているかを告げ知らせるために、現実の出来事のように表現して(非神話化して)いる。発掘調査により、紀元前3500年頃に、ウル地方(ユフラテ河下流の古代都市、アブラハムの故郷)に大洪水があったことは、考古学的に証明されている。また、バビロニアにも洪水物語があった。ノアの箱舟の記事は、メソポタミアで起こった大洪水とその洪水から助かった人物がいたという当時の伝説を材料にし、後代になって聖霊の導きによって、一つの物語とされたものである。その目的は、神と人間との在り方についての真理を述べるためである。
 洪水物語は、出来事を信仰による聖霊の導きによって解釈した歴史なのだ。ノアの箱舟の記事は嘘だというのではない。大洪水は事実であり、ノアのように助かった人がいたとい伝説があったのだ。しかし、箱舟の大きさや、どんな動物が共に乗船したかなど、細かな記事を、歴史的事実として受け止めるために書かれたものではない。そのような形で書きとめておくべき、何らかの出来事があったと受け止めるのが第一である。そして、何よりも知るべきことは、ノアという神の命令に従った義人と、その家族が、大洪水から守られたことから、神の意志を第一として神と共に歩むことが大切だというメッセージである。ノアの洪水物語も、信仰の本来あるべき姿(アイデンティティ)と信仰による生き方(ライフスタイル)を、読者が体得するように、正典として編集されているのだ。
 現在、多くのキリスト教雑誌、メディアは、進化論に対抗するようにして、聖書の天地創造の記事をそのまま信じなければならないような書き方をしている。しかし、特に旧約聖書の記述を一字一句その通りだとしなければならないとなると、戦争をも肯定するような危険な教えとなってしまう。クリスチャンとなるためには、創造論を受け入れなければならないという印象を与えるならば、キリスト教は危機に立たせていることになる。牧師となって10年の経験を積んだ頃、父は旧約聖書の正しい解釈を求めて、渡米、正典的解釈にたどりついた。クリスチャンの信仰と経験、純真な愛が、苦痛と危険にある人々を、神の祝福へと導くのだ。


御翼2011年9月号その3より


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